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橋本努の音楽エッセイ 第20回「『チベットの死者の書』とモーツァルト」

雑誌Actio  20112月号、22

 


 

 もう生まれる前からジャズを聴いて育った息子が、最近は自分の好きなCDを聴きたいというので、食事の時間は、自由にステレオをいじらせることにしている。すると、だいたい「おかあさんといっしょ」の音楽集「コロンパ」か、100円ショップのダイソーで買った(というか譲ってもらった)「オックスフォード少年合唱団のクリスマスソング集」、といったあたりになってしまう。そんな音楽が、耳に付いて離れない今日この頃である。

 落ち着いた音楽が聴きたいと思う。ここに紹介したいのは、90年代の中頃に、中沢新一が絶賛して話題となったピアニスト、ヴァレリー・アファナシエフの『モーツァルト:幻想曲/ソナタハ短調』である(2008年に再発売[COCO-70983])。中沢の著作『チベットのモーツァルト』は、モーツァルトの音楽が、チベット的な宇宙論に通じているという「読み」をする。それを裏づける表現が、このアファナシエフの演奏である。

 中沢によれば、「アファナシエフは『チベットの死者の書』によって、モーツァルトの比類ない知性がとらえていた、この宇宙的な「なにものか」の本質を、理解しようとしている……。なんという正しい直観ではないか。チベット人の叡智は、この書のなかで、人間の内面深くに内蔵されている宇宙的なるものを、光の律動として、明確に取り出そうとした」という(同CDパンフより)。

 アファナシエフは、異常に遅いテンポで演奏することによって、モーツァルトの曲に、一つ一つの微細な、新たな発見と解釈を加えていった。遅い演奏によって、鍵盤をまるで打楽器でもたたくかのように、独立したものとして扱う。するとそれぞれの音は打音のリズムとなって、精神の律動を、深部から呼び起こしていく。

 私たちは通常、理性こそが体系的な思考を成し遂げるのであって、身体の躍動や、精神の鼓動といった動因は、アモルフなエネルギーのようなものだと考えてしまうだろう。だが鼓動は、深層にある人間の宇宙観を呼び覚ます。近代的な世界観に抗して、太古の宇宙(コスモス)をうち立てていく。

 1947年にロシアで生まれたアファナシエフは、いわば団塊の世代で、かれはそんな鼓動のうねりを、1968年に生じた世界的な学生運動のなかに感じとったのかもしれない。『チベットの死者の書』は、当時のアメリカのヒッピーたちが、自分たちの親世代文化(WASP文化)に対抗するために、バイブルとした書でもあった。当時の若者たちは、これを読んでチベットやインドを放浪することにあこがれた。カウンター・カルチャーの象徴として、本書はあったのである。

 アファナシエフは本書から次のように引用している。「闇魔王は、汝の首のまわりに縄を巻きつけ汝を引きずりまわすであろう。汝の頭を切り裂き、心臓を引き抜き、内臓を引き出し、骨をかじるだろう。だが、汝は死ぬことができないのだ。…身体は、意識ある身体なので、首を切られても四つ裂きにされても死ぬことができない。

 この恐ろしい状況は、人間が死と再生の中間で経験する幻影にすぎないというが、その幻影こそが、人間を再生する。新たに生まれ変わりたい人のための、静謐な一枚ではないだろうか。